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死は敗北?介護現場の看取りについて
今から20年前の4月2日。介護福祉士を取得したばかり。
特別養護老人ホームに就職して2日目にして初夜勤。半年間同特養でアルバイトをしていたため、正社員で就職して2日目の夜勤は1人カウント。
4人で120名近くを対応するという、昔ながらの体制。
そんな夜勤明け、急変で1人の御利用者が亡くなった。
その2時間前に自分が食事介助で関わった方。
その後、最後の食事介助の様子を詳しく聞かれ、状況を整理。介助に過失があったわけではなく、心不全であったと判断。
しかし、その2日後に行われた職員会議の中での当時の事務長の言葉
「これ裁判になったら負けるから」
つまり、介助の内容どうこうでなく、
「施設で死なすな。」というメッセージのように思えた。
それから半年後、ある利用者が夜勤中に急変。
搬送先で亡くなられた。
その時は
「よくみつけたねー。さすがやわー。」
と、異常を見つけたことをめちゃめちゃ褒められた。
その経験から、若かりし未熟は自分は
「死は敗北で訴訟」
という介護の怖さを胸にやきつけていた。
【別の価値観に触れる】
それから3年後、転職した先の特別養護老人ホームでの研修「ターミナルケア」
101歳のおばあさんが洗面所で亡くなっていたのを発見したという事例を、若いスタッフが発表していた。(細かいことは省いてます♂️)
「搬送しなきゃまずかったんじゃないですか?」と尋ねると
「そんなんかわいそうじゃないですか??」
ええ⁉️なにその考え方?
細かいやりとりについては省くが
「死は敗北で訴訟」
という考えと
「高齢者にとっての死は誰にでも訪れるもの」
という考え方の違い。
根底から価値観が崩れ去った。
死は敗北で訴訟→無理な延命
が本人のためであるとは限らない。
今は様々な形で「死」というものはオープンになっている。
終活なんて言葉は20年前では考えらない。
【まとめ】
死は敗北で訴訟、裁判では負けるよという考え方は、高齢者介護においてはもう難しいのではないか??
多死社会の中の入所施設の役割について、「死」についての捉え方をどう考えるか。。
超高齢社会において、「死」は隠すものではない。
過去で言えばおくりびと。
最近でいえば中尾彬さんの本。
平成ノブシコブシの徳井さんは「看取り士」の資格をとられたとのこと。
18年前とは時代が変わったなと。
20年前のこの経験は自分の大きな財産になっています。
※個人的な見解です。まだそのような施設もあるのかな??